バラゴンの大きな耳と、あの顔。愛嬌がある。でも、人間を襲う肉食怪獣だ。可愛く見えるのに、やっていることは怖い。『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』で、僕がまず引っかかるのはこの落差だ。
その相手は、特殊メイクを施した俳優が演じる巨大人間。表情が見えるから、恐ろしさだけでなく孤独や悲しみも感じる。1965年8月8日公開、本多猪四郎監督、特殊技術・円谷英二の映画。僕はこの、人間と怪獣のあいだにいる巨人と、地底から現れるバラゴンの違いを楽しみたい。
『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』とは何か
日米合作としての成り立ち
本作は東宝とベネディクトプロの提携で製作された日米合作の怪獣映画です。終戦直前にドイツから広島へ運ばれた不死の心臓が、戦後に少年の姿へ成長するという物語は、西洋の怪物と日本の戦争の記憶を結びつけています。
東宝怪獣映画における位置づけ
僕には、ゴジラとは違う形から怪獣映画を考えられる作品だ。人間に近い顔を持つフランケンシュタインと、四足のバラゴン。その違いが、戦いの動きにも、感じる悲しみにも出る。『モスラ対ゴジラ』(1964年)と並べても、翌年の『サンダ対ガイラ』と並べても、東宝特撮の幅が見えてくる。
原作フランケンシュタインとの関係
原作小説『フランケンシュタイン』をそのまま映画化した作品ではありません。本作では、不死の心臓が原爆の被害を生き延びて巨人へ成長するという独自の物語が描かれます。ただし、生命を人間の都合で扱うことや、生み出された存在が社会から排除されることへの問いは、原作と比較して考えたい部分です。
戦争と被爆の記憶を重ねる物語
導入では不死の心臓を軍事利用しようとし、戦後の広島では、その心臓から成長した少年が保護される。僕はこのつながりを、科学の利用と戦争の被害を問い直す物語として読む。巨大化する生命の前に、まず人間がその生命へ何をしようとしていたかが置かれている。そこが気になる。
関連作品『サンダ対ガイラ』への展開
翌1966年には、同じく本多猪四郎監督・円谷英二の特殊技術による『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』が公開されました。こちらも人型の巨人を描く関連作品ですが、本作の青年フランケンシュタインがそのまま再登場する続編ではありません。両作を比べると、再生する生命という発想と、人間が巨人をどう扱うかという問いが見えてきます。
怪獣バラゴンの魅力と特徴
ビジュアルデザインと造形技術
バラゴンは古代の爬虫類を起源とする地底怪獣。それでも、四足の姿勢や大きな耳からは、哺乳類のような愛嬌も感じる。僕には、その見た目と凶暴さの組み合わせが面白い。さらに、俳優が演じる巨人へ、着ぐるみと操演のバラゴンが飛びかかる。形の違いが、そのまま動きの違いになる。ここが、この対決のいいところだ。
能力・スペック・戦闘スタイル
バラゴンは地中を移動し、口から熱線を吐く肉食怪獣。角は発光器の役目を持ち、熱線で岩を砕きながら掘り進む設定だ。僕は、地底から出てくる動きと、巨人へ飛びかかる動きの組み合わせに惹かれる。地上を歩くだけでは出ない迫力がある。
その後の怪獣シリーズでの再登場
バラゴンは『怪獣総進撃』(1968年)にも登場し、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)では護国三聖獣の一体として描かれる。僕には、凶暴な肉食怪獣だった本作と、ゴジラに立ち向かう2001年版を比べるのも面白い。同じバラゴンでも、置かれる役割によって見え方が変わる。
バラゴンの”地底怪獣”というポジション
空や海から脅威がやってくるのとは違い、バラゴンは地底にいる。足元から現れる怪獣だ。僕には、その登場に、神話の怪物のような不気味さがある。地面の下にも何かがいる。その感触が、顔や耳にある愛嬌とは別の怖さをつくっている。
愛嬌と恐怖が同居する魅力
愛嬌があるのに、人間を襲う。僕がバラゴンの魅力を感じるのは、この落差だ。耳や顔がかわいく見えることと、物語上の凶暴さは、どちらも消さずに見たい。片方だけでは、この怪獣の面白さを言い切れない。
フランケンシュタインの異質な存在感
怪獣映画における人型巨人の珍しさ
フランケンシュタインは、人間に近い顔を持つ巨人だ。俳優が特殊メイクで演じているため、表情や目線が見える。僕には、この違いが大きい。ゴジラやモスラとは別の異質さがあるのに、人間の感情にも近づいてしまう。恐ろしいものを見ているはずが、その孤独まで気になる。
人間性と怪獣性のあいだで揺れる描写
戸上季子は巨人に母親のように接する。その横で、周囲は危険だと疑い、バラゴンの被害まで押しつける。大きくなっただけで、保護する相手から追う怪獣へ変わってしまう。僕には、この巨人の扱われ方が痛い。
感情移入を誘う演出
不死の心臓が軍事目的で運ばれ、原爆の被害を経て成長し、巨人になる。そしてバラゴンと戦う。僕には、彼が悲劇のヒーローに見える。力の大きさを楽しむ一方で、その生命が人間にどう扱われてきたかを忘れられない。
巨人の怖さと、被害者としての姿が重なる。僕はそこに同情を覚える。大きくて危険だから倒せばいい、とは受け取れない。その引っ掛かりが、この映画の異色さだと思う。
造形と特殊メイクの裏側
少年のフランケンシュタインを中尾純夫、青年を古畑弘二が演じています。青年の姿は特殊メイクで表現され、目線や表情が見えることが着ぐるみ怪獣との大きな違いです。後年のサンダとガイラも人型ですが、外見は全身を覆う毛のある造形で、本作と同じメイク表現ではありません。
俳優の熱演と演出の妙
細かな動作や立ち振る舞い、感情のこもった目線。僕はそこから、巨人の恐れや孤独を受け取る。大きさだけでなく、演技が怪獣の存在感になっている。人間の顔を持つ巨人だからこそ、その表情を追いたくなるのだ。
本作を支えるキャスト・スタッフ
本多猪四郎の演出――巨人を守る人と、危険視する人
僕が本多猪四郎の演出で面白いと思うのは、巨人を守る人と、危険視する人の両方を見るところだ。同じ生命を前に、扱いが違う。人間とは何か、という問いが、巨人の側だけでなく、周囲の振る舞いにも返ってくる。
円谷英二の特撮演出
特殊技術を担当したのは円谷英二。僕は、バラゴンが地中から現れ、周囲を壊す映像に惹かれる。ミニチュアの質感と、巨大なものが動く画面の迫力。その組み合わせは今見ても色あせないと思う。俳優が演じる巨人と、着ぐるみ・操演の怪獣が同じ空間で戦うところにも、この特撮ならではの面白さがある。
音楽・伊福部昭の存在感
音楽は伊福部昭。僕には、その重厚さが、怪奇性と巨人の孤独を支えているように聞こえる。力強いのに、哀しみもある。「生命のうねり」と言いたくなるのは、その感触だ。巨大なものが戦う迫力と、そこにいる生命の悲劇を、一緒に受け取れる。
主演キャストの顔ぶれ
主要キャストは、川地堅一郎役の高島忠夫、ジェームス・ボーエン博士役のニック・アダムス、戸上季子役の水野久美です。ボーエンと季子が巨人を救おうとする一方、川地は研究対象としての側面も重く見る人物であり、同じ生命に向ける態度の違いがドラマを生みます。
日米俳優陣による国際色豊かな構成
ニック・アダムスが英語で演じたボーエン博士は、日本公開版では納谷悟朗が声を担当する。僕には、巨人を救おうとするボーエンと季子、研究対象として見る川地を並べるほうが、単に国際的なキャスティングと説明するより面白い。誰が演じるかと、どう巨人に接するか。その両方から人物を見たい。
現代から見た『フラバラ』の価値
再評価される怪獣映画としての個性
僕が今この映画を見たいと思う理由は、怪獣同士の対決に、科学、人間性、戦争の影が重なっていることだ。巨大な人間の顔を見て、恐怖と同情を同時に感じる。怪獣映画の楽しみ方が、そこから少し広がる。
映像技術・演出の現在との比較
僕は、円谷英二らの撮り方が生む重量感と、物理的な質感を面白いと思う。1965年の特撮で表現できる範囲には限界もある。それでも、ミニチュアと動きを同じ画面で見ていると、今の映像と比べても見劣りしない迫力がある。僕にとっては、古い技術という説明より、まずその手触りを楽しみたい映画だ。
怪獣ジャンルの多様性を示した意義
巨大人間と地底怪獣が戦う。僕には、その形の違いだけでも面白い。ゴジラと別の姿、別の動きから、対決の見え方が変わる。この映画の中で二つの身体がどう戦うかを見ていると、怪獣映画にはまだ違う形の楽しさがあると感じる。
広島と戦後日本の記憶
広島で育つ巨人と、軍事利用されようとした心臓。僕には、ここにも戦争の記憶が重なって見える。バラゴンの愛嬌を語りたい映画なのに、人間の都合で追われる巨人も気になる。怪獣対決だけでは終われない。
結末のバージョン違い
本作には、地割れによる結末とは別に、大ダコが登場するラストも撮影されています。本多猪四郎公式サイトによると、別ラストはアメリカ側の要望で作られたものです。「海外版なら必ず大ダコが出る」と一括りにせず、鑑賞する映像ソフトの収録内容やバージョンを確かめると、結末の違いも楽しめます。
参考資料
本多猪四郎公式サイト:作品解説・スタッフ/キャスト/国立映画アーカイブ:上映作品解説/講談社:ゴジラ&東宝特撮 OFFICIAL MOOK vol.22
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